この調査は介護する家族の心の痛みが、率直に吐露されたものとして理解しなければならない。
 とはいえ「足を踏まれた者の痛みは、踏んでいる者にはわからない」という。
この論理にしたがえば、介護を受けている側の心身の痛みは、この何倍もあるはずということになる。
 高齢者福祉の発達した北欧では、社会的な介護制度が整備されたことにより、苦悩から解放された家族の絆がより深まったという調査結果が出ている。
性悪説的な人間観が強く現実直視の北欧では、このような老人虐待については早くから社会問題化した。
それが社会的な介護制度を推進する大きな力となった。
 ところで、どうしてこのような虐待事件が大量に起こるのか。
そこには明らかに、できもしない過酷な仕事を家族に強制してきたあやまちがある。
介護は女がするもの、介護は家族の仕事、昔は日本では家族がお年寄りを手厚くお世話したものだ、といった思い違い、「かいご」の「ごかい」があった。
 ここでいまだ日本が十分に工業化しておらず、戦前の家族制度を色濃く残していた時代の様子をみてみよう。
昭和三〇年代といえば、日本の産業構造が変わりはじめ、就労人口の割合としては第一次産業(農林水産業)の従事者がようやく減りはじめるころだが、まだ半数近くが第一次産業に就労しており、高度経済成長以前の時代である。
 このころの高齢者は重い病気になっても、都市部でさえも病院に入院するということは、ほとんどなかったから、多くの高齢者は数日から数週間自宅で床について亡くなった。
 ではこのころの日本の田舎では、病や障害を得た老人はどのような介護を受けていたのだろうが。
日本の典型的な農村地帯といえるN県のある村で働いていた保健婦さんが語る、昭和三〇年ごろの老人医療や介護の実情は、以下のようなものだったのである。
 このころの村(人口約九〇〇〇人、現在は約五〇〇〇人)には、村の病院があり保健婦が一人いた。
農業と養蚕が主な産業で、家族は大家族が大半だった。
 老人の死亡原因の第一位は結核、ついで脳卒中。
第一位の結核については、開放性(肺の病巣から結核菌が痰に混じって体外へ出ている状態)であることが判明した場合、患者は隔離するために村の病院に入院させたので、家族の負担はかえって少なかった。
しかし病院へ入院しても、薬がなかなか入手できず、ペニシリンが少しあったくらいで、本当の末期患者でないと注射もしてもらえなかった。
 在宅の結核患者は、人目やら世間体を気にして、保健婦が訪問しようとしても家族が隠すために見つけることそのものに苦労した。
そのために発見が遅れ、状態がひどく悪化してから訪問することが多かったが、すぐに亡くなるのが常だった。
 脳卒中だと、発病してもわずか一週間くらいで亡くなることが多かった。
また倒れて動けなくなっても介護できる人手はほとんどなかった。
その当時の人びとにとっては、農業(養蚕)が主な仕事で、蚕の餌の桑の葉を摘んだり、手間ひまのかかる蚕の世話に人手が足りず、猫の手も借りたいくらい忙しかった。
だから病人自身もそういう家族の状況がよくわかっていたので、脳卒中で倒れても、介護者なしで一日を過ごすことは、ごくあたりまえのことだった。
今のような、座敷に持ち込めるポータブルトイレも紙オムツもなかったので、古びた桶をそのまま置いていることもあった。
 もちろん水道もなかったから、入浴といっても井戸水を使って1ヵ月に二回入るくらい。
身体を拭いてもらうのも一週間に一回くらいなので、訪問すると体臭がひどく、汚れや栄養不足で、わずかな日数でも床ズレができた(床ズレには馬油が効く、などといわれていた)。
 家族は仕事で忙しく、山仕事などで一日留守にするときなどは、弁当持ちで出かけるために、老人のオムツ交換など昼間はできないことも多く、不潔なためにますます病院へゆくことを嫌がることが多かった。
家族の認識も、寝ていればなおるだろうという程度。
もちろん血圧も測ったこともないというくらいの医療知識だったから、異常事態が起こっても気がつかず手遅れで亡くなったりした。
また、常備の薬もなく山間部では交通手段もなく、病気になれば、ただあきらめるしかなかった。
介護といえば、暇をみつけてやるという感じだった。
 住宅の状況も、今では想像もできないほど貧しかった。
 部屋の多くは養蚕に使われて、病人のための専用居室などはとてもとれない。
居間の隅に寝かされているなどがふつうだった。
家の建てつけも悪く、外界との境は障子一枚で、雨や風が吹けばまともに室内に吹き込む。
冬場でもストーブなどなく、せいぜい火鉢と湯たんぽが使われていたくらい。
これでは何年も生きられるはずがない。
食生活も漬物や味噌汁など塩分の濃いものが多く、ますます高血圧を悪化させていたようだ。
 これは当時の日本の、郡部地域における高齢者介護の典型的な風景であったろう。
 この村は、先にもふれたように一九五〇年代以前、村の人口は九〇〇〇人をこえ農業と養蚕が生業だった。
村長さんの当時の思い出は、「何しろ生活のすべてが『おかいこさん』中心でした。
春には生活に必要な部屋以外は全部畳をあげて『おかいこさん』の部屋になる。
秋までは障子も蚕の世話をしやすい板戸に換える。
蚕の餌の桑の葉を摘む作業もたいへんで、子どもからお年寄りまで働ける者は総出でした」。
「おかいこさん」という呼称から、当時のこの村の生活にとって、いかに養蚕業が大切だったかがわかる。
まさに村の生命線だったのだ。
「暖房は囲炉裏だけ。
家族皆で桑の葉を摘んだり、『おかいこさん』の世話で一日中働いたあと、囲炉裏のまわりで夕御飯を囲んだのは楽しかったが、冬ともなると寒くて寒くて。
朝寒さで目が覚めると、窓から吹き込んだ雪が布団の上にうっすら積もっていた」 社会福祉担当の女性の思い出はこうだ。
「小学校から帰ると、母のメモがある。
『すぐにボテをもって桑畑にきなさい』と」。
ボテというのは桑の葉を運ぶ駕寵。
平地の少ない山里のこと、桑畑は山の斜面地だ。
  「桑の葉摘みは手作業ですから少しでも人手が要る。
これもつらい仕事でした。
せっかく葉を集めてボテに入れておいても、ついうっかりするとボテが麓ヘゴロゴロと転がってしまう」「私は足がいっぱいの蚕をさわるのが嫌で嫌で。
そうすると大切な蚕にさわれなくてどうする、ときつく叱られました。
それほど蚕は生活の主役だったんです」と。
 「たてつけの悪い窓や戸から風の吹き込む寒い冬、暖房などありませんから、とくにお年寄りが亡くなることが多かった。
とにかく家中総出で働かないと暮らしていけなかったから、寝たきりのお年寄りの世話といっても、仕事の合間に嫁や手のあいた者が世話するくらい。
昼間は誰もみられない。
夜になってから、ようやくオムツを換えてやれた。
入浴だって井戸水を汲んで薪で沸かすから、一ヵ月に数えるほどしか入れてあげられない。
当然不潔になった。
でもお年寄りもそういう事情はよくわかっていたから、何も要求せず黙って日当たりの悪い隅っこで寝かされていました」 一九五三年に近隣の村との共同で病院ができ、以後の高度経済成長で栄養状態が改善し暖房も普及した。
こうした生活水準の向上と医療の普及によって、急速に平均寿命が延びた。
長寿化は高度経済成長がもたらした豊かさのたまものだ。

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